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みやぎ伊達家と食文化

伊達家・食の歳時記

新田開発には報酬が 仙台米は江戸へ

政宗公が仙台に築城を始めたのは慶長五年(1600年)のこと。その頃の仙台平野は、現在からは想像のつかない低湿地帯の原野だった。
つまりは北部の北上川、中部の鳴瀬川、城に近い広瀬川や名取川、南部の阿武隈川など、それぞれの流域がきわめて水田に適した野谷地だったのだ。
藩ではさっそくこの野谷地の開発を各領主に命じ、その分を知行高に組み入れる方式をとった。おかげで新田開発は意欲的に進められていった。いわば仙台藩の高度成長期である。
寛永五年(1628年)には、白石城主片倉重長が桃生郡の広渕、赤井、蛇田(現在の矢本町から石巻市にかけての水田地帯)など九ヶ所に広大な野谷地を拝領して、片平平太左衛門など二十余人の家中を各地に配して開拓に当たらせている。これで二百貫文(二千石)の知行を増加されたという記録が残っている。
さらに米の生産に拍車をかけたのは、江戸が急激な人口増加で米不足になり、関東だけでは供給不能の状態だった。そこにいち早く目をつけた政宗公は、仙台領の米を江戸に積み出し、藩の財政基盤を堅固なものにしていった。

藩直営の新田開発と大規模な河川改修

二代忠宗公の代になり、ますます活発な開拓が進められ、新田開発を望む者は後を絶たなかった。
三代綱宗公の代にはかなり余裕が出てきたため、従来三年ないし五年の開発期間を延長して、万治三年(1660年)五月の通告では「只今より己来野谷地下され候衆は、七年間荒野、八年目御手入、九年目より御役召し上げ申すべき事」とされた。
そうして仙台開府から60~70年の間に領内の米の生産体制は最高潮に達し、伊達騒動が起こる寛文時代になると藩直営による新田開発も行なわれるようになった。
それにともなって河川改修や用水路の開鑿(かいさく)など、大規模な治水事業も展開された。特に北上川は流路を変える大工事を施して、本流を石巻港に注ぐようにした。そうすることで大崎地方(県北内陸部の大水田地帯)の米を船で運び、石巻港から穀船で江戸へと効率的に搬出できるようになった。
元和八年(1622年)には石巻に藩の米蔵が建てられ、石巻港は奥州随一の港として多くの船が出入りするようになる。現在、日和山公園(石巻市)の高台から北上川河口を眺めると、往時の繁栄がよみがえってくるようだ。

藩直営の新田開発と大規模な河川改修

五代吉村公の代、享保十三年(1728年)頃には、買米制を強化して領内の米を藩が買い取り、江戸や他領へ売るようにした。買米の費用が調達できない時でも家臣や農民・町人から借金をして買米を行ない、その売払い利益で返済したという。
さらには享保十四年から五年間、全家臣から五分一の役金を徴収して金十万両の基金を作った。たいへんな倹約と徴税である。これはいわば仙台藩の「享保の改革」といえるだろう。
買米制は家臣の知行米や農民の余剰米まで買い上げて、前渡し金を与えるという柔和政策でもあったため、「御恵金」として有り難がられ、大きな反発の騒動は起こらなかった。
その結果、江戸廻米高は加速度的に増大し、最盛期には二十万石もの仙台米が江戸へと運ばれていった。享保十七年(1732年)の記録には、「西国(近畿・中国地方・九州など)で蝗害(イナゴの大群による稲作被害)あり」のため、江戸の米価が暴騰し、仙台米は例年の倍以上出荷されて約五十万両もの莫大な利益を上げている。この好景気で仙台藩は長年の財政難から脱することができたのである。
自然条件に左右される稲作のこと、もちろん冷害や旱魃(かんばつ)、洪水などで不作の年が幾度もあった。飢饉の年には餓死者が多数出て、北上川などには累々と水死体が流れたという。
そうした困難を乗り越えて、政宗公が開始した新田開発から400年、宮城米はササニシキ・ひとめぼれという人気ブランドで、いまも江戸=東京はもちろん、全国の食卓を賑わせているわけである。