宮城県運営の食情報発信ウェブサイト
宮城県運営の食情報発信ウェブサイト 食材王国みやぎ

MENU

みやぎ伊達家と食文化

伊達家・食の歳時記

狭い小部屋で献立を練った政宗公

政宗公はかなりの食通だった。
「少しも料理心なきはつたなき心なり」との名言も残している。 これは「少しも料理の心得がない者は貧しき心の持ち主だ」という意味で、 政宗公がどれほど朝夕(当時は一日二食)の献立を吟味していたかについては、 たいへん興味深い逸話が残っている。

朝、手水(洗面その他)を済ませ、煙草を三服か五服、愛用の煙管で吸うと、 閑所(かんじょ)に入る。
これは平たくいうと雪隠(せっちん)のことで、二畳敷の小部屋。用を足す部分は三角形に切り抜かれ、取っ手のついた蓋がかかっている。 雪隠付きの個室と考えた方が理に適っているだろう。 ここには刀掛け、硯、紙、書物、香炉などが備わっていて、 公はここで一時(いっとき=2時間)もの間、じっくりと朝の献立を練るのである。

その献立表をちょっとのぞいてみよう。
「赤貝焼き、ふくさ汁、ごはん、ヒバリの照り焼き、鮭のなれ寿司、香のもの(大根の味噌漬け)、 このわた、栗と里芋」というもの。食材にヒバリとあることから五月頃のメニューと推定される。 ふくさ汁には仙台味噌と京都の合わせ味噌を使うように指定されている。具は雉肉と豆腐、青菜の茎。ごはんは一回の食事で二合半、丼にして三杯ほども食べていた。ヒバリは、あの野鳥の雲雀。おいしかったのだろうか。酒の肴である海鼠腸(このわた)が出ていることから、朝食に酒も並んでいたであろう。さすがグルメは朝からお酒、である。栗と里芋は菓子の材料でもあることから、果物などのない時期には菓子が膳の終いを彩っていたと思われる。

そうして日中の公務を済ませると、午後早くにまた閑所に入り、今度は夕食の献立を練った。 公はここで重要な政治判断や書状の執筆、書見なども行なっていたという。 殿の間でも大広間でもなく、狭い小部屋の方が良きアイディアが生まれたというわけだ。

将軍の饗応料理に見る政宗公のグルメぶり

政宗公は家康、秀忠、家光と三代にわたって、時の将軍を江戸城下の仙台藩屋敷に接待している。
外様大名であった公は、その頃、盛んに取り潰されていた全国の大名家にあって、 徳川家の機嫌を損ねることは命取りであると考え、あらゆる手をつくしていた。 青葉城に天守閣を造らなかったのも、徳川家への遠慮であった。 そこで公は、全国の美味なる名産品を連ねた饗応料理で将軍をもてなした。
「皿数の多いのは無用。名物や珍味よりも、例え一品でも自ら料理して盛るならば、 それが最大の御馳走である」とは、現代にも通じる実に真心のこもった料理哲学だ。

ある時、二代将軍秀忠公を接待した際のこと、自ら盛った御膳を運ぶ政宗公の後ろから 秀忠公の側近が毒見をしようと追いかけてきた。
その時、政宗は「政宗ともあろう者の膳を毒見するとは何事ぞッ!」と叱責。 「将軍様に毒など盛って天下を取るなど、政宗のすることではない。十年前ならそうした野心もあったが、 その時でさえ毒を盛って人を殺すことはしなかった。合戦でならいくらでも殺しましたぞ!」と一喝し、 徳川家の家臣たちをふるえあがらせたという。
これは寛永五年(1628年)の出来事だから、政宗はすでに齢(よわい)六十を越えていた。 このころには命がけの合戦よりも、徳川家の重臣として安泰の日々を築こうとしていたことがうかがえる。

寛永七年(1630年)四月、三代将軍家光を仙台藩江戸屋敷に招いた際の懐石料理は、 「伊達者」としての政宗公の美意識をすこぶる表しているものとして興味深い。 並ぶのは仙台の名産品かと思いきや、意外にも郷土色は排されていて、 そのかわり全国から集めた美味・珍味を苦心して集め、中には南蛮渡来で非常に高価な白砂糖を使った「よりみつ」(うるち米の菓子)や「鶴のつみれ汁」などもある。 鶴は江戸城下にもいたというが、とうてい庶民の口に入るものではなく、 鶴を捕えて食した町人が死罪になったという話もある。
本膳には「鯉、鮑、より鰹、みる貝の寄せ煮、七分搗きの御飯盛り」など。
二の膳には「けり(チドリ類)の焼き鳥、かまぼこ、うり、なす、大根などの香のもの、 山椒の煮物、旬の野菜のすまし汁」など。味付けには味噌醸造のたまり醤油が使われている。
三の膳には「平貝、鮭の塩引き、小魚、旬の小菜」など。 持ち帰りのできる御引菜(おひきさい)には「鮒寿司、鮎の焼き魚、鯛の身と卵の煮物、 蛸を煮て炒ったもの、小鮎の吸い物。それにお菓子として色つけ芋、つるし柿、よりみつ」など。
こうした豪勢な献立をすべて政宗公が考案し、味見し、自ら膳を運ぶという接待ぶりは、 茶道や能を心得た華人として美意識を誇示し、武将としてよりも齢を重ねた教養人としての 自己表現だったといえるだろう。 家光公は「政宗うなせば日本の威武は衰へなん」と、いたく感激したと伝えられている。